お知らせ
初めまして。あっとすくーる代表の渡です。この記事では、なぜ私があっとすくーるを立ち上げたのかについてや、あっとすくーるで子どもたちと関わる中で大事にしていることを紹介していきます。少し長いですが、最後までお読みいただけると嬉しいです。
あっとすくーる設立までのヒストリー
未婚の母子家庭に生まれ育つ
私は1989年に熊本県に生まれました。未婚の母子家庭だったため生まれたときから父はおらず、自分とは父親が違う兄二人と母、祖母の5人家族で育ちました。母は保険会社の外交員で営業成績もすごく良くて、会社から表彰されたりもしていたようでした。稼ぎもちゃんとあって。
なので幼稚園のころから体操教室、そろばん、書道教室など、複数の習い事をさせてもらっていました。小学生のころは夏に毎年キャンプにも参加していました。誕生日には、友達を家に招待して誕生日パーティーを開いたり。クリスマスにはちゃんとサンタクロースからのプレゼントも届きました。本当に「普通」の生活を送ることができていたと思います。
母は仕事で帰りが遅い日が多かったので、幼稚園のクラスの中で、僕だけ送り迎えは祖母にしてもらっていたというのはありましたが、特にそれで嫌だと思ったこともなかったですね。でも、そんな生活が中学生のころに一変したんです。
僕の家を二つの事件がほぼ同時に襲いました。一つは、実家を離れて一人暮らしをしていた兄が借金を作ってしまったこと。もう一つは、祖母が骨折して介護が必要な身体になってしまったため、母が働く時間を減らさざるを得なくなってしまい収入が減ってしまったことです。
特に兄の借金のことは事前に聞かされてくて、ふとしたことで知りました。中学2年の夏休みに、家でゲームをしてたら、知らない男の人から電話がかかってきて、「○○(兄の名前)いますか?」って言われたんです。
兄はその時、家にいなかったので、「いません」って答えたら、「いませんじゃなくて、出さんか!おらあ!」ってすごい剣幕で怒鳴られて。「え…」みたいな感じになって。びっくりしました。
その男の人から、「自分、誰なん?」って言われたので、「弟です」と答えたら、「夏休みにのんきに遊んでる場合じゃないんや!」ってまた怒鳴られて。「金を借りて逃げてんだよ、お前の兄貴は。電話に出せ!」って言われました。
「本当にいないんです」と言うと電話は切れました。この電話で、「これは何かとんでもないことが起きているぞ」と察しました。
母が家に帰ってきて、電話のことを話したら、兄が借金をしてしまったという事情を知らされました。それ以来、知らない電話番号からの電話をとるのが怖いというか、今でもトラウマになっています。
生活が急変した中学生時代
借金のことがあって、兄が実家に戻って来ました。それから家では、母と兄が毎日、借金のことでけんかをしていて、怒鳴り合っていました。明らかに、母が精神的にしんどそうになっていました。
母の帰りが遅くて、ご飯も「勝手に食べておいて」っていう日も増えましたし、お酒を飲んで酔っ払って帰って来ることもありました。ある日の夜、兄と母が口論をしていて、「剛と一緒に死んでやる」と母が泣き叫ぶ声が聞こえてきたこともありました。
それから、借金の取り立ての電話がしょっちゅう鳴るようになりました。とにかく電話がかかってくるのが怖くて…。留守番電話に過激なメッセージが残されていることもありました。あの時期は、家にいても落ち着くことが全然できなくて。
なので当時は、とにかく家の中にいたくありませんでした。一人でいるときに電話がかかってくるんじゃないかっていうのも怖かったですし。僕は中学校では生徒会もやっていたんですが、中学校の門が閉まるギリギリまで学校にいるようにしていました。家に帰りたくなかったので。
学校が閉まってからも無駄に通り道をして帰ったり、当時住んでた家の駐車場で何もせずぼーっと過ごしたり。とにかく家に帰りたくありませんでした。当時塾にも通わせてもらってたんですが、それもサボったりして。
ただ塾をサボるのも、長くは続けられませんでした。この苦しい状況の中で、母が「あなたが頑張ってることだけが私の生き甲斐」と言ってくれていたからです。頑張っていい成績をとって母を喜ばせないといけない。なので再び塾にはちゃんと行くようになりました。
塾は中学1年の頃から通っていて、母子家庭には割引がある塾でした。授業がない時間でも自習さえしていればそこにいることができたので、家にいたくないから塾でずっと勉強してました。夜ご飯代だけは母親にもらって、ご飯を買って塾で食べたりしてました。塾にいるときは、家のことを考えなくてもいいし、放課後唯一心が落ち着く場所でした。別に誰かが話を聞いてくれるわけではないけど。単に家にいなくていいだけで気持ちが楽でした。
中学生の僕にとって、塾は勉強さえしていれば、いくらでもいていい場所というか。合法的に家にいなくても済む場所って感じだったんです。「塾に行ってくる」と言えば、親ももちろん納得してくれるので。だから受験生のときなんかは、土日もずっと塾にいました。
こう言うとめちゃくちゃ勉強が好きなやつみたいに思われますが、そういうわけではありません。ただ小学生の頃から祖母が横について宿題を見てくれていたので、勉強することが習慣にはなっていました。だから楽しいとか嫌いとかもなく、中学生の頃は単純にテストで点数が上がったら嬉しいという感じでやっていました。
それよりも塾にいると、家庭のことを忘れることができて、家にいなくていいというのが一番大きかったと思います。プロの先生が勉強を教えてくれて、友達もいる。そういう環境が、自分にとってはよかったんだと思います。
もう一つ変わったことは、母との関係です。関係が悪くなったということではないんですが、話す量は格段に減りました。明らかに母の余裕がなくなっていくのがわかったので、余計なことを考えさせたくないというか。とにかく、親にこれ以上負担をかけないようにしようと。
だから、何かあってもなかなか母に相談することができなかったです。特に、お小遣いをもらうのは気が引けました。受験生の時に、1,000円の参考書を買ってもらうのにもすごい勇気が必要で。母には、意を決して「参考書を買ってもらえないか」と言ったのを覚えています。
高校合格、そして大学受験へ
塾で勉強していたおかげもあって無事に志望していた公立の高校に合格することができました。行きたかった高校は、母の母校でもありました。高校に進学してからは、とりあえず兄の借金の問題は、弁護士さんに相談して落ち着きました。詳細はわからないのですが、家に電話が来ることもなくなりました。
ただ、祖母の介護はその後もずっと必要だったので、母が仕事をフルでできない状況は続き、経済的な部分は高校に入った後も悪いままでした。言うなれば「低空飛行」な感じです。劇的に良くなったわけでもないし、かといって当時のようにギリギリに追い詰められるようなプレッシャーもない。なんとか日々の生活を送ることはできるけど、家庭に余裕があった小学校時代に比べれば雲泥の差がある状態でした。
そんな中でも、将来の夢に向けて頑張っていました。当時、教師になりたくて、大学進学を目指していました。小学5年か6年生の時の担任の先生が23歳の新任で、その先生の家に休みの日に遊びに行ったりもして、「先生のようになりたい」と憧れたのがきっかけです。日常的に接する大人の男性が初めてだったというのもあったと思います。それが、たまたま学校の先生でした。
ただ、国公立大学でも、初年度の入学金や授業料だけで100万円は必要だと聞いて、「100万円なんてお金、うちにはないぞ」と。当時は、周りの友人の影響もあって、熊本を出て関西か東京の大学に行きたいと思っていたので、それだともっとお金がかかる。
それでも、母は「お金のことはなんとかするから、あなたは心配しなくていい」って言ってくれました。その言葉を信じて、大学受験に励んでいました。でも、そんな時にまた事件が起こりました。
大学入試を控えた高校3年の秋頃、兄の借金問題が再び家庭を襲い、進学費用が工面できないピンチを迎えました。自分は必死に受験勉強頑張ったのに、もう、どうにもできないんだと。
その当時、志望校だった大学の判定がようやく上向いてきた時期でした。やっとそれまでの努力が実を結んできたと喜んだ矢先に、家族に足を引っ張られたんです。
教師になるのが小学生からずっと夢だったのに、諦めなくてはいけないんだと思ったら、「勉強したって意味ないじゃん」「どうせ無理なんでしょ」ってなって。それで「死にたい」って手紙に書いて、リビングにいた母に渡しました。
それを読んだ母に泣きながら謝られて…。とりあえず、落ち着いて勉強ができるよう、母から兄に、僕の受験が終わるまで、家に戻って来ないように言ってくれました。でも、お金の問題は残りました。
そういう事情があって大学進学を諦めかけていた時、突然、父に当たる人が亡くなったという知らせが入ってきたんです。それで父の遺産が相続されることになって、大学進学の費用を工面できることになりました。
当時は、非嫡出子(法律上の婚姻関係がない男女の間に生まれた子ども)には、嫡出子の相続分の2分の1が贈与されるということで(※2013年に民法が改正され、嫡出子と非嫡出子の相続分は同等になりました)、奇跡的に志望していた国立大学にも合格でき、大学に入学することになりました。
でも、実際はそれよりも父が亡くなった時のショックの方が大きくて。僕は父のことは写真で見たことがあるだけで、一度も会ったことがなかったんですけど、20歳になったら、一度父に会ってみたいと思っていたので。亡くなったと聞いて、頭の中が真っ白になりました。涙が出てきて。「父にもう会えないんだ」ってなって。
今の塾を立ち上げて、本当にうまくいかなかったときも、父はどんな声をかけてくれるんだろうって思ったりとかもしました。今は、父がいなかったら大学進学できなかったので感謝しています。
「あなたのような人を待っていたの」。大学入学後に変わった将来の夢。
大学進学後は熊本を離れ、大阪で一人暮らしを始めました。学費は授業料減免を受けて、生活費は日本学生支援機構の貸与型奨学金を月10万円ほど借りて、生活していました。奨学金は、今も返し続けています。それと、家庭教師のアルバイトをしたり、当時800円くらいの時給の弁当屋でアルバイトをしていました。サークルは、大学の学園祭の実行委員に入って活動していましたね。
外国語学部に入学しましたが、1年生のころは一般教養として、学部関係なくいろいろな授業を受けていました。その中で、「子どもの貧困と教育格差」についての授業がありました。教師になりたかったということもあり、教育格差に少し関心があって授業を取りました。
『子どもの貧困』(阿部彩著、岩波新書)という本が授業の課題図書だったのですが、その本の中に母子家庭のエピソードが載っていました。朝から晩まで働いていて、身体が動かない、でも、仕事を休んだら生活していけない。もう体も動かないし、死ぬしかない、といったお母さんの声が紹介されていたんです。
「なんでここまで追い込まれてるのに、誰も助けてくれないんだろう」、「なんで親が1人ってだけで、こんなにしんどい思いをしないといけないんだろう」って感じて。自分の家庭と重なる部分があって、家で本を読みながら泣いたのを覚えています。
元々僕は、自分と同じような境遇にある子どもたちの力になれる先生になろうと思っていました。ただこの授業を受けたことがきっかけで、もっともっと力になりたいと思うようになりました。当時はまずは学校の先生になって、10年ぐらい勤めて、そこから第二の人生ではないですが何か新しいことを始められたらなと漠然と思ってました。
でも、ちょうどそのときに、大学の友人がソーシャルビジネスプランコンテストを主催する団体でインターンをしていて、その友人に頼まれて、たまたまそのコンテストに出場することになりました。
無料で通える学校を作るっていうプランで、今考えるとビジネスプランでも何でもないんですけど…。高校時代の友人にも手伝ってもらいながら、ファイナリストまで選んでもらって。 そのプランをブラッシュアップする合宿に参加して、色んな大人の人たちから意見を言われたんです。
「無料で通える学校を作りたいなら、文科省に入れ」って。そこで無料の学校を作るというプランは消えました(笑)。
さあどうしようと思っていたところに別の方から「そもそも、ひとり親家庭の子どもの困りごとって何なの?あなた当事者なんでしょ」と問いかけられたんです。「僕が一番困ったのは大学入学の時のお金でした」って答えました。そこでまずは大学入学時の費用に使うことができる奨学金制度をつくることにしました。
とはいえこれを必要としてるのは、僕だけかもしれません。僕自身も当事者ではありますが、あくまでも一人の意見。なので実際にひとり親家庭の当事者の声を聞きに行きなさいって言われたんです。当事者か、当事者のことをよく知ってる人に話を聞きに行きなさいと。当事者の知り合いがいないなら、親の会を探して自分で会いに行きなさいと。
それで調べていたら、たまたま自分の家の近くでシングルマザーのおしゃべり会が開催されることを知ったんです。連絡先もわからなかったので、アポなしで、会場の前で待っていたんです。
部屋の方に歩いてくる女性の方がいて、「すみません。僕、大学2回生で、ひとり親家庭の子どものための奨学金制度を作ろうって考えているのですが、お話を聞かせてもらえませんか」と話しかけました。
すると、ぱっと両手で僕の手を握って、「あなたのような人を待っていたの」と言われたんです。アポなしで行ったので、怒られるかなとか、追い返されるかなとか思っていたんですが、そう言ってもらえてびっくりしました。
この体験が自分の気持ちの転換点だったというか。初めて人から必要としてもらえた瞬間だったんです。実際に当事者のお母さんと接することで、自分の心に火が付き始めているのを実感したみたいな感じで。
帰りに原付に乗りながら、こういうことを本気でやっていくのも、悪くないのかもと、ぼやーっと考えていました。プランの中に塾の設立というのもあって、最終的にはその事業をやってみようということになりました。
あっとすくーる設立から今に至るまで
「渡塾」の開校と塾を始めて気づいたこと
コンペが終わってから、立ち上げ資金200万の支援を受けられる内閣府の事業があったので、それで立ち上げ資金を得て、大学時代の友人に手伝ってもらいながら、塾を立ち上げました。
最初は、物件を借りるのに苦労しましたね。まだ学生だし、ひとり親家庭の子どもを支えたいとか言っていて、こいつ家賃払えないだろって思われて、なかなか借りられなかったです。でも、たまたま出会った不動産会社の人で、ご自身がシングルマザーの方がいて、そういうことであれば、力になりたいと言ってくれました。
仲が良いオーナーさんがいるからその人に交渉してみると言ってくださって、もしその人が良いって言ってくれたら、その物件でいいですか?と聞かれて。テナントとして使ってもいい、1LDKで家賃7万8千円の住居用の一室でした。交渉していただいた結果、保証人を2人立ててくれたらいいよということになりました。それで、母と、母の知り合いの方に保証人になってもらって、無事物件を借りることができたんです。
そうやってスタートした渡塾ですが、最初はお金がなくて普通の塾に通えない子に、勉強だけを教えていればいいと思っていました。でも、最初、子どもが全く宿題をしてこなくて。「小テストをやるから、ここを覚えてきてね」と言っても、全く覚えてこない。
「どうせ、勉強しても点数とれへんから、別のことやっててもいいですか」と言ってきた子がいて、「やる気がないなら塾を辞めていい」と言ってしまったこともありました。
最初は「なんで勉強しないの?」って思ってたんですよ。「ここ塾だよ」って。自分は中学生、高校生のころ、しんどくても頑張っていたんで、全く理解ができなかった。大学にもひとり親家庭の出身者はいましたが、みんな頑張る子でした。渡塾で出会った子はそうじゃない子もいて。
でも、実は勉強になかなか手を付けない子どもの背景には、日常生活が全く安定していないっていう問題がある場合もあって。
親が離婚して心が不安定だったり、父親から虐待を受けていたり、親子関係がすごく悪かったり、学校にも馴染めていなかったりして、ずっと心にモヤモヤを抱えている子もいます。
僕も中学時代は家にいるのがつらかったんですが、それでも、幼少期が比較的安定していたので、土台はしっかりでき上がっていたんです。
僕は「幼少期の貯金」って呼んでるんですけど、そのおかげで、中学で不安定な時期が来ても土台はゆらぎませんでした。でも、渡塾で出会った子どもたちの中には、そもそもの土台がない子もいました。だから、「ただ、勉強を教えるだけじゃだめなんだ」って思うようになって。日々の中に「安心」を作っていかないと 、将来のことを考えることもできないなって。それを子どもたちから教えてもらったんです。
「安心」っていろんな定義があると思うんですが、僕は「自分はひとりじゃない」って思えることかなって思っています。味方がいるというか、何があっても大丈夫と思えるというか、そういう感覚を持てる状態が僕の考える「安心」ですね。そういった「安心」の土台があって初めて、人は学ぶことができるんじゃないかと。
例えば、心のもやもやがあって、家で宿題ができない子がいる。普通の塾だったら、「なんで宿題やってこないんだ」と怒る。僕も昔はそうでした。でも、渡塾の講師は「なんで宿題をやってこなかったんだろう」と思いを馳せる。
家に勉強する環境がないかもしれない。親とけんかしたのかもしれない。妹や弟の世話をしないといけなかったのかもしれない。子どもの行動の背景に何があるのかを、まずは想像しています。
そうすると、塾に休まずに来てくれただけでも、「えらいやん」ってなる。遅刻せずに塾に来ることも、宿題をしてきたことも、それが決して当たり前ではないということに気づきます。
だから講師は、子どもの小さな行動を見逃さず、子どもたちの頑張りをしっかりとほめるようになります。そういう人がいる空間は、子どもにとって安心できる場になるのではないかと。安心できる場になると、授業がない日にもふらっと子どもは塾にやってくることがあります。
自信をくれたある親子との出会い
僕がこの仕事を続けられているのはいくつか理由があるんですが、そのうちの一つが一番最初に通ってくれた生徒とその保護者さんとの出会いでした。当時、中学2年生のひとり親家庭の子どもでした。勉強が苦手で、5教科で合計100点台だった子でした。その子は半年で200点くらい成績が伸びたんです。
「なんでそんなに伸びたの?」って聞いたら、「渡塾の先生は、僕のことほめてくれた。これまで誰もほめてくれんかったから」と。その子のお母さんは朝から晩まで働いていて、子どもとじっくり関わる時間がなかったんです。学校にも行ってない子だったから、日常の中で「人にほめられる」って経験が全くなかったんです。
その子は「自分はできない」って思い込んでいました。「ひとり親家庭やから、自分はあかん」と言っていた。でも、ひとり親家庭で育った僕や大学生に出会って、「ひとり親家庭でも大学に行ける人っておんねんや。塾も立ち上げたんや。もしかしたら自分も何かできるかも」って言ってくれたんです。
保護者さんからも「今まで息子は、ひとり親家庭なんて嫌だと言ってたんです。そのせいで自分はこんなに不幸なんだと。でも最近、ひとり親家庭でよかったかもって言ってくれるようになりました。理由を聞くと、そのおかげで渡塾に出会えたからって。本当に感謝しています。」という言葉をいただきました。
大学で教育学や福祉について学んだわけでもないし、支援者としては駆け出しもいいところ。経営だって初心者。こんな自分がひとり親家庭の役に立てるんだろうかと、事業を始めてからは不安ばっかりだったのですが、この言葉が僕に自信を与えてくれました。
こんな自分でも、ひとり親家庭の役に立てるんだと。この出会いがなかったら、もっと早くに僕はこの仕事を辞めていたかもしれませんし、ここまであっとすくーるが続くこともなかったかもしれません。
そのときの彼が僕らを見て「ひとり親家庭でも頑張ったらなんとかなるんや」と思ってくれたように、「俺も一年前はそういう感じだったわー」と話してくれる先輩がいて、後輩は「自分は今しんどいけど、先輩にみたいになれるんや」という気持ちになれる場所にしたいと思ってます。
「その生き方で誰かの支えになれる」という言葉を使っているんですけど。これは僕と生徒に限らず、講師と生徒、もっと言えば、生徒の間でもできるんじゃないかなと思います。そんな出会いがたくさん生まれる場所にしていくことが、塾の目指す理想の形です。
とはいえいきなりそんな話をするのは難しいです。子どもたちは、家庭で悩んでいることがあっても、最初はあまり顔に出さないです。だから、面談をセッティングして話を聞くというよりも、授業が終わって講師が子どもを家の近くまで送る時や、授業がない日に子どもがふらっと塾に来てボーっとしている時に、家族関係、学校の友人関係の悩みをぽろっと吐き出してくれる時がありますね。
渡塾は、「塾」という場だからこそ、悩みを抱えた子どもたちとつながり、安心してもらえる空間をつくることができると思っています。
例えば、安心できる居場所がない子どものための「相談の場」を作ろうとしても、それをうたった場所には、なかなか子どもは行きたいとは思わないですよね。少なくとも僕はそうでした。「勉強しに行く」っていう大義名分があるからこそ、親にも「行ってきます」と胸をはって言えると思うんです。
渡塾の仕組み
そんな渡塾ですが、一般的な塾と同じように、保護者から授業料をいただいて塾を運営しています。ただ、ひとり親家庭だと料金が減額になります。週1回の授業で通常14,000円のところを、ひとり親家庭の場合は月8,000円。一般的な個別指導塾だと月20,000円以上するところもあるので、比較的安価です。
受験生でもう一コマ授業を増やしたい場合でも、親に気を使って言い出すことができなかったり、増やすことができなかったりすることもあります。
その場合、塾に「奨学金制度」があり、子どもは家庭の負担なしで授業を増やすことができるようにしています。この奨学金は寄付金を財源にしています。僕もそうでしたが、渡塾に来る子ども、特にひとり親家庭の子どもは「親に迷惑をかけないようにしたい」って気持ちは強いと思います。親に負担をかけたくないから塾をやめると言ってきた子もいました。
それが「学びたい」っていう意欲を阻害してしまう場合もあるのが実情です。大学まで行きたいけど、奨学金を借りなければならず、将来返せるのかと不安に思って諦めようかと相談しにくる子もいます。
中には「完全無料で塾をやったらいいじゃないか」と思われる方もいるかもしれませんが、僕は最低限の受益者負担は、大事なことではないかと思います。子どもは、経済的に苦しい中でも、親が払ってくれていると感じることがやる気につながることもあります。
また、支援者としても子どもや保護者と対等でいられるので、良い関係でいられるという面もあります。これが一方的にボランティアで教えるとなると、支援している側と支援してもらっている側という差のようなものがでちゃうこともあるんじゃないかと。
なので最低限家庭で負担できるところは負担してもらいつつとは思いますが、それでも払えないところは出てくると思うので、そこは公的なお金で支えられるなりして、経済的な事情であきらめることがないような仕組みが必要です。
そこは民間で取り組まれている塾代に使える奨学金の情報を集めて、それを紹介したりすることでカバーしていってます。自分たちだけで家庭の経済負担を下げることには限界がありますが、世の中にすでにある資源を使うことでそれが可能になります。
そこに力を入れた結果、今では全国各地から奨学金や進学費用に関する相談が寄せられるようになりました。意外と学校の先生方も詳しくないことが多いので、家庭の事情、例えば今年離婚して来年からひとり親になる場合にこの奨学金は対象になるのかどうかといった部分まで考慮してサポートできるかと言われると、実は難しいんです。
もちろん最も身近な距離にいる先生が親身になって相談に応じてくれるに越したことはないので、そこは今後改善していきたい部分ですが、まずは自分たちでカバーできる範囲はカバーしていこうと思ってます。
さいごに
今後の私たちの目標は、現在拠点がある箕面市で暮らすひとり親家庭の子どもたちが、誰一人として家庭環境によって将来を諦めることなく、前向きに自分の人生を歩んでいける街にすることです。
そのために、まずは今取り組んでいる学習支援を、必要としてくれる全ての子どもたちに届けることを目指しています。具体的には2030年までに箕面市内で教室を増やし、今の教室を合わせて4教室開校することです。これで距離の問題でアクセスできない子どもたちがいなくなります。
事業としてはそういう目標を掲げつつ、もう一つ頑張りたいのは地域の中に理解者・応援者を増やしていくことです。
例えばうちには将来教師になりたい大学生が毎年来てくれていますが、その学生たちがうちで経験を積んで、箕面で教員をやってくれるようになれば、ひとり親家庭にとって安心して頼ることができる先生が箕面という街に増えていくことになります。直接的な事業活動とは別に地域の支援力の底上げを図るというのが、もう一つの目標です。
加えて、こうした支援職にある人だけでなく、いわゆる一般の人々にも無理のない形でできることをやっていってもらえたらと思っています。例えば僕は小さい頃、友達の家族に夏休みのクワガタ取りや、プールに連れていってもらいました。
うちのスタッフには友達の家族にレジャーに連れていってもらったというスタッフもいます。そうやってほんの少し手を差し伸べてくれる人が街の中に増えたら、絶対ひとり親家庭にとって暮らしやすい街になると思うんです。
事業者として事業を通じて直接ひとり親家庭を支えながら、その活動を通じて地域の中に理解者・応援者を増やしていく。そして人生をかけてひとり親家庭が安心して暮らせる街を作ること。それが僕の夢です。その実現に向かって、これからも頑張っていきます。