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お知らせ

渡のお話
2020.7.14
ひとり親家庭を孤立させる社会|東京都太田区の3歳女児死亡事件を受けて

またしても幼い子どもの命が失われてしまう事件が起きました。まずは、犠牲となった子どもに哀悼の意を表します。

 

そして、再びひとり親家庭です。

 

こうした報道が出るたびに繰り返しお願いしていることですが、今回の事件の報道が社会に問題提起をしてくれることを願いながら、一方で、その報道の影響で傷つくひとり親家庭が出ないことを私たちは切に願っております。

 

とはいえ願うばかりではいられないので、どうしてこうしたことが起きてしまうのか、当事者として育った経験や、10年間ひとり親家庭の子どもたちへの学習支援を行ってきた経験を交えて話をしたいと思います。

 

「親を放棄しなかったこと」を責める?

 

ネット上の反応を見れば保護者の行動を責めるようなものはもちろんあります。

 

ただ、こうしたご意見もちらほら見られます。

 

「どうして施設を頼らなかったのか」

 

また、Twitterではこうしたご意見も。

 

おっしゃってることはものすごく正しいと思いますし、そういう社会になっていって欲しいと思うのですが、これを見て僕が真っ先に抱いた感情は「なんかモヤモヤする」でした。

 

なぜモヤモヤしたのか、その理由について以下で述べていきます。

 

SOSを出しにくくしたのは誰だ?

 

 

いきなり結論なのですが、「親を放棄しなかったではなく、したくてもできなかった」が正しい表現じゃないか?と思ってしまったことがモヤモヤの理由です。

 

「十分な養育環境にない場合は他者に委ねることも勇気です」とも書いてありますが、例えばその相談をして「よく相談してくれたね。それは決して無責任な行動じゃなく、勇気のある行動だよ。」と温かい声をかけてくれる人が、果たしてどれだけいるのでしょうか。

 

もちろんこう書いてくださってるご本人はそうなのだと思うのですが、当事者にとって声をかけることができる距離にいる大人に果たしてそんな人がいたのかどうか。

 

「親を放棄しなかったことを責める=保護者である本人を責める」というのは、どうも納得がいきません。

 

加えて、ほんの少しだけでもこの保護者の方が歩んできた道のりに想いを馳せれば、例えばこういうことが思い浮かびます。

 

「きっと彼女は、これまでの人生で誰かに頼ってよかったという経験をしたことがなかったのかもしれない。それどころか、SOSを出したことによってさらに傷つくという経験を積み重ねてきたのかもしれない。」

 

仮にこうした人生を歩んできた場合、果たして責められるべきは本人なのでしょうか?

 

目に見える事象だけでなく、そこに至った背景を見ずして「親を放棄しなかったことを責めたい」と言われたら、「ああ、きっとこの人はひとり親家庭のリアルを知らないんだろうな」と思ってしまいます。

 

というか、思ってしまいました。だからモヤッとしたんだと思います。

 

加害者になってる自覚を

 

 

一昨年の年末、寡婦控除税制の改正をめぐる議論の中で、とある与党議員のこのような発言をニュースで見ました。

 

「(寡婦控除税制を改正したら)未婚の出産を助長するんじゃないか」

 

助長する、という言葉は、ポジティブなニュアンスでは使われない言葉だと思います。

 

未婚で子どもを産むということをネガティブに捉えられているのだろうなぁと思うのですが、それが当事者を傷つける可能性があるという自覚はこの発言をされた議員の方にはおそらくないんだろうと思います。

 

僕も未婚の母子家庭で生まれ育ちましたが、別に僕の母は軽い気持ちで僕を産んだわけではないです。

むしろ「女手一つでも社会に出して恥ずかしくない子どもを育てる」と強い覚悟を持って産んでくれました。

 

「あ、未婚のひとり親でも所得税控除されるんだ。じゃあ産もっかな〜。」なんて人、いると思います?

税制改正したくらいじゃ未婚の出産は増えません。

そんな軽いものじゃないですよ、未婚で子どもを育てるって。(子どもの目線から見ても、それはそれは壮絶でした)

 

その他にも、例えば公的な制度の申請に行って、その窓口で心ない言葉をかけられたひとり親家庭の方もいます。

 

「今日は小綺麗な格好をされているんですね。」

 

「先日男性と歩いてるところを見ましたよ。本当はひとり親家庭じゃないんでしょう?」

 

言った本人にそんな自覚はないかもしれませんが、これは立派な加害行為です。

そういうことの積み重ねで「もう頼るのはやめよう」という気持ちが作られていくんです。

 

時にこうした「加害行為」は、それこそテレビやSNSで不意に飛び込んできたりもするんです。

先の「未婚の出産を助長するんじゃないか」のように。

 

そんな社会で、SOS出せます?

迂闊に出せば、こうして心ない言葉をかけられるかもしれないのに?

 

そうした背景を考慮せずに「SOSを出そう」っていうのは、結構な暴力だなぁと僕は思ってしまいました。

まずは「SOSを出せる環境を整備する」こと、ここから始めないといけない気がしています。

 

さいごに

 

 

今回の事件は今後もしばらくの期間報道されるかもしれませんが、保護者を責めるような内容ではないことを願っています。

むしろ同じような状況にある保護者が「SOSを出してもいいのかな」と思える内容を望みます。

 

話は少し変わりますが、今でこそ僕は、当時の自分がいかに苦しい状況であったかということをそれなりにフラットに喋れるようになりました。

 

どうか、保護者自身も被害者であるということを忘れないでください。

 

子どもが命を落としてしまったのは、私たちを含めた周りの大人が保護者を孤立させたからです。

保護者を孤立さえさえなければ、こんなことにはなりませんでした。

 

近年起きた報道を見ても、十分な繋がりがあったり、支えがある中で子どもの命を奪った保護者はいませんでしたよね?

保護者を加害者とみなして責めている限り、一生このような事件はなくなりません。

 

どうすれば、子どもの命を守れたのか。

 

子どもたちが暮らす地域の中で、子どもや家族を取り巻く方々と一緒に対話を繰り返して、自分たちなりの、この地域なりの子どもや家族の守り方を探していきたいと思っています。

 

あっとすくーる理事長

渡 剛